集字聖教序
集字聖教序

書 の 歴 史(中国編)<7> 老本 静香

 

王羲之の書(2)

 

19、集字聖教序

集字聖教序は唐の太宗皇帝が作られた文章を懐仁(えにん)という坊さんが王羲之の書の中から字を集めて碑にしたものです。

 皆さんおなじみの孫悟空が活躍する小説「西遊記」で知られる三蔵法師こと玄奘(げんじょう)は、仏教修業のため永くインドへ渡っていましたが、貞観19年(645)たくさんの経典や仏像などを携えて帰ってきました。

 帰国した玄奘は、皇帝の許しを得て、長安の弘福寺で経典の翻訳に着手しました。大勢の学僧らと共にむずかしい翻訳の仕事に取組むこと一年半、翌年の7月にインド西域の見聞録と751335巻の新訳経典が完成しました。

玄奘はそれを太宗皇帝に献じて、それに序文を賜りたいと願い出ました。初めはなかなか書いて貰えなかったようですが、皇帝も玄奘と接するうちに仏教の深遠さに魅せられ、貞観22年(648年)8月、帝はみずから聖教序を作り、同時に皇太子も序記を書いて与えられました。

 玄奘はじめ仏徒は大変喜んで、この序文を碑にして残すことに決め、帝の許可を貰って弘福寺の僧、懐仁が王義之の字を集めて碑にすることになりました。このように字を集めて文章にすることを「集字」といいますが、集字の碑が作られたのは歴史上でもこれが初めてのようです。

 しかしこれはたいへんな仕事だったことでしょう。求める字のないもの大小のそろわないものなどあって、行書体で不自然でないよう組み合せるのは容易でなかったと思われます。

 専門に研究しておられる学者の説によりますと、重複する字、例えば之(53字)、無・而(39字)、不(24字)、以・於(20字)などは同じ形にならないようにそれぞれ変えてあり、字のないものは扁と旁を組み合せて作字しているということです。またどうにもならないものは草書を使用している部分もあります。

 この当時は王義之の真蹟が太宗皇帝のもとにたくさん集められていましたから懐仁は真蹟から直接集字することが出来ました。この碑の全部ではありませんが多くの字が、王義之の書そのものが用いられているわけで、石に刻したものとはいえ、この碑は王義之の書の面影をもっともよく伝えているものとして尊重されているところです。

十七帖
十七帖

20、十七帖

 十七帖は王羲之の書いた手紙(古い言い方では尺牘(せきとく)といいます)を集めたものです。

 唐の太宗皇帝は、王羲之の書を非常に好まれ、手許に多くの書蹟を集められましたが、それを当時の書の名人緒遂良に命じて分類整理し、何巻かの巻物に仕立てました。

 十七帖はその中の一つで、手紙が収められておりその数は27通(29通ともいわれる)あります。つまり王羲之全集の手紙編というところです。

 二十七通もあるのに十七帖という名前はすこしへんですが、それは最初のところに「十七日」という字句がありますので、そのはじめの文字をとって十七帖と名付けられているわけです。

 太宗皇帝は解畏(かい・むかい)という者にこの十七帖の複製を作らせ、弘文館(当時の官立の最高学府)の生徒に習わせました。現在伝わっている十七帖の拓本はこの複製から、または臨書したものから後世につくられたものだろうといわれています。

 十七帖は昔から今も草書の手本として最高のものとされているもので、書道を勉強する者にとって一度は必ず習わなければならないものです。

 文面は王羲之が蜀(国の名)の益州刺史周撫に与えた手紙であるといわれています(全部ではありませんが)。写真版は最初の部分で「郡司馬帖」とよばれているものですが、むずかしい草書ばかりでわかりにくいので、参考までに読み方を書いておきます。

  十七日先書。耶司馬未去。即日得足下書。為慰。先書以具示。復数字。

 「十七日にさきの手紙をさしあげました。都司馬はまだ出発していません。その日すぐにあなたの手紙をいただき安心しました。さきの手紙に事こまかく書きましたので、いまは一言しるすだけにします。

というような意味です。

喪乱帖
喪乱帖

21、喪乱帖

はじめに「羲之頓首喪乱の極」とありますので喪乱帖と呼ぴます。現在は皇室の御物になっています。

 この喪乱帖は古く奈良朝時代に日本に渡ってきたもので、桓武天皇の御府にあったことが確認されています。後に後西天皇崩御の際にその弟の妙法院門跡尭恕法親王に賜わり、明治初年に妙法院から皇室に献上されたといいます。

 奈良朝時代には数多くの王羲之の書が日本に渡ってきて正倉院に納められていましたが、聖武天皇崩御の後はすべて外に出てしまったということです。しかしそれらは当時の貴族の手によって研究されて、平安書道が興り和様書道が出来上ったのですから大いに役立ったのですが、その後王羲之の書はほとんど残されませんでした。その中でこの喪乱帖と孔侍中帖の二つが僅かに今日まで残されてきたものだろうといわれています。

 この書は真蹟ではなく双鉤填墨(そうこうてんぼく)といわれる方法で模写したものですが、その技術が巧妙で、実に精密に出来ていて外見上は真蹟と全く区別がつかず、顕微鏡で見てはじめて複製であることがわかるといわれています。

 ですから王羲之の真蹟に最も近く、信頼のおけるものとして貴重なもので、それが我が国に現存しているのですからすばらしいことです。

 また王羲之の書はほとんど中国の法帖に載っていますが、この喪乱帖はどの集帖にも掲載されていないことが貴重な理由の一つにもなっています。

 この帖は、祖先の墓を壊された悲しみを訴えた手紙とその他の手紙の断簡を綴り合わせたものです。書はずいぶん先のよくきく良い筆で書いたように見えます。蘭亭叙と同じように鼠髪筆(そしゅひつ―ねずみのひげ)で書いたものかもしれません。手紙ですから自由に書きながら首尾一貫し、しかも変化の妙をつくしています。

 

 

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