爨宝子碑
爨宝子碑

書 の 歴 史(中国編)<9> 老本 静香

 

24爨宝子碑(さんぽうしひ)

 次に紹介するのは、実にむずかしい字を書く宝子碑です。

 この碑は東晋も終りの頃に刻されたもので、文字が隷書と楷書の中間のような書体で、非常に珍らしいものです。

 1778年(清の時代)に雲南省の田舎で発見されました。出上した頃は問題にされず、誰も気づかぬまま長い間放置されていましたが、その後70年ほど経て見なおされ、研究が進められるとともに、書道史上非常に重要なものであることがわかってきて、今では有名なものになっており書の歴史を語る上ではずすことの出来ないものです。

 この碑が建てられた東晋時代というのは、碑を建てることが禁止されている時代でした。それは立碑の禁令というもので、漢代末期の205年に、三国志の主役の一人である魏王・曹操が禁止した時からはじまって西晋に受けつがれ、東晋時代も引続き厳重に守られていたようです。

 そんな時代にこの宝子碑が建てられているのが不思議ですが、それは遠い雲南の地で中央の威令が行き届かなかったのだろうといわれています。

 その証拠に中央の威令が及びそうなところには、この時代の碑がほとんど見つかっていませんから、この碑は東晋時代の数少ない碑として貴重なものであるわけです。

 またこの碑には多くの謎が秘められているとされています。第一にはその書風です。当時の中央では王羲之を中心にした美しいスマートな書風が流行していた時代に、いくら山間隔地といっても、同じ南方にこんな変った書が存在していたのはなぜだろうという疑問です。

 次に書風は北方の碑(たとえば中岳嵩高霊廟碑)とよく似ているが、北と南では当時は国もちがい、また地理的にも大きく隔っているのに、こんな遠く離れた地方でこのように似かよった書風があるのは不思議である、というような点が問題とされています。

 

牛橛造像記
牛橛造像記

25、牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)

中国の歴史を見るうえで、南北朝時代というのがもっともややこしくてわかりにくい時代です。

 つまり晋(西晋)が滅んでから、隋が全国統一を果す(589)までの270年ほどの間ですが、国は揚子江を界に北と南に分れ、しかもそれぞれ、いろいろな国が興亡をくりかえして、とても覚えきれないほどです。

 晋王朝が滅んで(316)、一族が南の地にのがれ建業(今の南京)に都をおいたのが東晋です。この時から中国は南北に二分されました。

 まず南朝は、東晋が百年ほど続いて、後は宋・斉・梁・陳と国が興亡して隋に平定されます。また北朝は北方の国々(五胡十六国)を統一した北魏が150年ほど続いて、東魏・西魏に分かれ、東魏は北斉となり、西魏は北周となって、やがていずれも隋に平定されます。

 さて今月紹介するのは北魏の書です。北魏は前述の北朝で栄えた国ですが、

もとは北方の異民族で、鮮卑族の拓跋挂が北方諸国を統一してたてた王朝です。

 拓跋挂は初代道武帝となり、平城(山西省の大同)に都を開きました。そして六代目の孝文帝の時に都を洛陽にうつしました。北魏というのは三国時代の魏と区別するためにそう呼ぶわけです。

 北魏は北方の異民族でしたから、漢民族の文化にあこがれを持っていました。それで制度や服装を漢式にあらためたり、言語も漢語を使うことを強制したほどで、南朝の文化を積極的に取入れ、その同化に努めました。

 当然仏教も盛んに行われていたのですが、三代太武帝の時代に政治上の問題から廃仏令が布かれて、一時期きびしい排仏運動が行われたことがあります。

 しかしそれも四代文成帝の時代になると、仏教復興の詔勅が発せられ、雲崗の五大石窟が造営されました。洛陽に都がうつされた頃は仏教も盛んに行われていた時代です。

 牛橛造像記は、その頃のもので、竜門の石窟にあります。  

 

賀蘭汗造像記
賀蘭汗造像記

26、賀蘭汗造像記(がらんかんぞうぞうき)

北魏は365年から534年まで150年ほどの間、中国北方に栄えた国です。

 建国初期の頃は文化度も高くなく、仏教も廃仏令が布かれていてほとんど行われていませんでした。また三代太武帝の時代に、政治上の問題からきびしい排仏運動が行われたりしましたが、四代文成帝(452465在位)の時代になっ

て、仏教復興の詔勅が発せられて、雲崗の五大石窟が造営されました。

 北魏は、もとは北方の異民族ですから、漢民族の文化にあこがれをもっていて、南朝文化を積極的に取入れることに努めました。

 その中でも六代孝文帝がもっとも有名で、都を平城から洛陽に移すとともに、政治の制度や言語・服装まで漢式に改めたりして、南朝文化の同化に努めまし た。北魏の歴史からみますと、この孝文帝の頃が国力のもっとも盛んな時代だったようで、仏教も盛んになり、洛陽の南にあたる竜門というところに、多く洞窟が掘られ、石仏が造られました。

        

 洛陽の南14キロのところに、伊水という川があります。その両岸の岩山がさしせまって門のようになっているので、竜門とか伊闕とか言われています。

 その両岸の岩山には石窟寺といって、岩をくりぬいてつくった洞窟のお寺がたくさんあり、その中に無数の仏像が造られています。 そしてその仏像のそばに、造った人が仏像の由来や祈りの文を刻しています。 それが造像記といわれるもので、北魏の書の代表的なものとして書道史の上で貴重なものです。

 「牛橛造像記」も今月の「賀蘭汗造像記」もこの洞窟の中に刻りこまれている造像記で、書として立派なものとされている有名なものです。

 この竜門には洞窟が1352ヶ所もあるといわれますが、その中でも孝文帝の時代に造られた「古陽洞」がもっとも古く、また書として有名なものがほとんどこの中にあるので特に有名です。牛橛造像記も賀蘭汗造像記もこの古陽洞の中にあります。

 

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